サムエル上16:1−13/Ⅰテモテ1:12−17/マルコ10:17−31/詩編89:20−30
「主はサムエルに言われた。「いつまであなたは、サウルのことを嘆くのか。わたしは、イスラエルを治める王位から彼を退けた。角に油を満たして出かけなさい。あなたをベツレヘムのエッサイのもとに遣わそう。わたしはその息子たちの中に、王となるべき者を見いだした。」」(サムエル上16:1)
数奇な運命を辿って、奴隷となっているイスラエル民族をエジプトから脱出させるというミッションインポッシブルを受けたモーセの話を先週読みました。彼は自分に与えられた立場や後ろ盾を使ってファラオと向かい合いますが、その企ては悉く失敗し、もはや打つ手がないというギリギリになって初めて神ご自身が立ち上がるという物語でした。
モーセの死後はヨシュアがその仕事を引き継ぎ、イスラエルはカナン地方に定着します。しかしその土地は全く空白の新天地ではなく、既にそこに暮らしている様々な民族が存在しました。それらの民族との間に起こる諍いを問題ごとに裁いたのが士師と呼ばれる人たちでした。彼らはイスラエルが困難に直面したとき、神によって召し出され、神の力によって解決したあかつきにはその職務から解かれ、普通の人になりました。しかし周辺の民族が強大になり、イスラエルを常に圧迫するようになると、イスラエルの人々は、自分たちも他国のように強い王に常に指揮してもらいたいと願うようになったのです。
しかし、そもそもイスラエルというのは民族集合体、それもヤハウェという神を共に拝む集合体でした。言い換えれば、ヤハウェこそがイスラエルを常に指導するのです。その立場を貫いたのが祭司サムエルです。だからサムエルは王を立てることを拒みます。そのサムエルを最終的に説得したのは神ご自身でした。「民が捨てるのはサムエルではなく、私、神だ」というのです。そこでサムエルは、ベニヤミンの一族でキシュの息子であるサウルをイスラエルの王として立てたのです。
この一族は地域でも有名な富裕な一族だったようです。サウル自身は全く思いがけないかたちでサムエルから油を注がれる、つまり王とされることになったのですが、おもしろいことにサムエル記にはサウルの即位に関わる2つの物語が2つとも記録されています。その一つはサウルをイスラエル固有の職務である「指導者」として捉えたもの、もう一つは明確に王として他の国々と肩を並べる職務として捉えています。
この二つの見解が、結局最終的にサウルの失脚の物語に繋がるのです。つまり、サウルに与えられた「王」としての政治的権限と、サムエルに代表される宗教的権威との軋轢でした。聖書は簡潔に、戦に立つ前の儀式でサウル王が越権行為を行ってサムエルを怒らせたと記しますが、その背後には二つの勢力の軋轢があったのでしょう。そして聖書はその軋轢の結果サウルを王位から退ける決断を神がなさったというのです。「いつまであなたは、サウルのことを嘆くのか。わたしは、イスラエルを治める王位から彼を退けた。」(サム上16:1)という言葉の背景はそういうことです。
物語はその結果、新しい王としてダビデが選ばれるわけですが、しかしサウルはまだしっかりイスラエルの王として機能している。だから人々は一つの国に二人の王が立つことを危惧し、不穏なことが起こらなければ良いがと心配します。「彼がベツレヘムに着くと、町の長老は不安げに出迎えて、尋ねた。「おいでくださったのは、平和なことのためでしょうか。」」(同4)という言葉が示す通りです。その後ダビデは有名なゴリアト倒しの戦績によってサウルに召し抱えられますが、二人の関係が良好だったのはほんとに短い間だったと思われます。間もなくダビデは謀反の疑いで追放される。ダビデもただの良い人ではないので、街のならず者たちを寄せ集めてゲリラ軍を組織しその隊長となってサウル王と対峙する。長老の心配したとおりです。
ダビデ王はとても多くの人に好かれるキャラクターなのですが、へそが曲がっている私はむしろダビデよりサウルの方に関心があります。そして初代の王というプレッシャーとストレスの中、激務に向かわざるを得ない彼の姿に同情します。そして同時に、「王」とは何か、権威ある者を担ぎ上げようとしたくなる民衆の心理とは何か、特に現代日本にあって今求められる民衆のあり方とはどういうものかを、サムエル記を読むときに考えないではおられないのです。
簡単に態度が豹変するのがわたしたち人間です。例えばこの国では保守も革新も共に「変化」を叫びますよね。「改革」というとなんだか良い方向へ進むように錯覚しますけどね。一方で信念を貫くということが全く感じられないのもどんなものかと思います。時流を読むといえば聞こえこそ良いけど、場当たりでしかないのですから。しかし、人間とはたかだかそういうものなのかも知れません。
それでも神は、忍耐し続けられる。人間ならばとうに諦めてしまうときでも、神は忍耐し、時が満ちるのを待たれる。サウルだってダビデだって、選ばれたときにはそれに相応しかったかもしれないが、結局何度も何度も神を裏切ります。対岸の火事ではなく、その姿こそわたし自身なのです。それでも神は忍耐なさる。忍耐とは堪忍袋がバカでかいのではなく、私に対して神が期待なさってくれているということでしょう。神を神とも思わない世に御子がお生まれになるということは、その具体的なしるしです。そして、その日は近いのです。
祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。あなたが教会のあゆみを導いてくださって、本日最後の日を迎えることができました。終末主日、あなたがわたしたちのためにしるしをくださる、その日が近いことを覚えて、改めて今感謝いたします。神さま、あなたを裏切り続けてしまう弱さを抱えたままで、あなたの前に立ち尽くすわたしたちを、どうぞ今ひとたび赦し、忍耐してください。そのあなたの期待に応える歩みを進めることが出来ますように。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。